正直驚きました。こちらで知ったのですが、携帯などでメールを打つときに入れたりする「絵文字」をそのままいちいち会話の中に言葉で挿入しながら話す園児の話しです。
「幼稚園でお砂遊びしてたら雨降って来ちゃったの泣き顔。」 これをふわっと街中で聞いたら、引っかかりますよね、「泣き顔」って部分に。その後も「雨」「涙」「お日様」「にこにこ」といった言葉を文章の最後つけて喋っていて、そのこどもと平然と話をしているお母さんは、竹下通りを神宮前交差点の方向へ曲がっていった。
[CNET Japan Blog - ケータイ時代のスタンダード](http://blog.japan.cnet.com/matsumura/ “”)
えーほんとに?にわかに信じがたいが、こんなことでウソをつく必要もないからほんとうにそういう話しかたをする子がいたんだろう。
いやでもまて。なんかの遊びかもしれないふざけてたのかもしれない。にしても、妙ではあるのだけど。
だからといって女の子の声のトーンは、ケータイの画面に出てくる文字のような、決して平坦なモノではなかった(もちろん最近はデコメールも普及してきて、メールの文字列が平坦、と言うわけではないけれども)。表情だってちゃんと会話と連動していたんじゃないだろうか。けれども、「泣き顔」「涙」は文末につけていくのである。
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声のトーンが平坦じゃないということで、安心したのやら、逆にもっと不安というか。とにかくおどろき。
この記事を知ったFPN-絵文字を音読する幼稚園児の会話にも書いてある、かつての「チョベリバ〜」とは違う衝撃がそこにある。
「チョベリバ〜」っていうのは「ちょう、べりー、ばっど」を言い換えただけだから、言葉を違う言葉に変換してるだけだもの。
言葉を違う言葉にしていく過程で、「超」をつけたり、省略の仕方だったり、イントネーションの変え方という「時代性」が表れる。
絵文字は、文字ってついてるけど、絵だもの(そうだよね?少し混乱してきた)。絵文字は、相手がそこにいなくて顔を見せられないからつけてるんだよね?
気持ちを絵にして貼り付けているのなら、変換すべきは絵→言葉ではなくて、感情→言葉だから、
「幼稚園でお砂遊びしてたら雨降って来ちゃったの泣き顔。」 ではなくて、「幼稚園でお砂遊びしてたら雨降って来ちゃったの。かなしかった。」 になるはずなんだよね。
衝撃度はかなり、かなり高いのですが「嘆かわしい」というものとはちょっと違った感情。未知のものへの興味でいっぱい!といった感じ。
と、書いてから考えたけど、自分の身近にそんな子どもがいないから「興味津々」と言えるのであって、もしこんな話しかたを自分の家族がしていたら、うざったいことこの上ない。
「そんな話しかたやめてよ」
「どうして。はてな。なきがお。」
「だって、うざったいから」
かつて「ちょべりば〜」にまゆをひそめていたおばさんたちは、わたしが今感じている「うざったさ」を感じていたんだろうか?
「ちょべりば〜」と「泣き顔」の違いが理屈としてあるから、わたしは「泣き顔」に違和感を感じるのか?
もしかして「ちょべりば〜」と「泣き顔」の違いがいくら理屈としてあろうとも、そこから得るうざったさがかつての「おばさん」たちにあったものとおなじなら、これ、わたしが名実ともにおばさんになった証拠かもしれない。乾杯。
とにかく、もしもほんとうに日常会話に絵文字が言葉で挿入されているなら、そうなるにはよっぽど絵文字にふれているはず。メールを読むだけでなく書くこともかなり頻繁だろう。これだけは間違いない。やはり、幼稚園児おそるべし。
