1日合計11時間の瞑想修行 10日間
一部では南極に行くと言われていたわたしだが、
修行にいってきたのだ。
京都の山奥。
10日の間、
1日合計11時間の瞑想。
12月23日の夜から、年を越して2日の朝まで。
その間、他の人と口をきいてもいけないし、
目配せなどのコミュニケーションもいけない。
携帯はスタッフの方に預けて、
ものを書くこともできないし、
本や雑誌、新聞を読むこともできないし、
インターネットもできないし、
絵もかけないし、
写真もとれないし、
歌ったり踊ったりもできない。
勝手に食べ物を持ち込んでもだめだし、お酒なんてもってのほか。
いきなりの腹痛ではずみをつける
1日目はなんとかこなしたのだが、2日目の朝っぱら(朝は4時に起きて4時30分から瞑想という冗談のようなスケジュール)からいつもの「持病の癪(笑)」で強烈な腹痛がわたしを襲った。
修業中は麻薬(すごい響きだ)はダメ。その麻薬の中には鎮痛剤も含まれていて、消炎鎮痛剤である湿布なんかもだめなんだってさ。
ということで痛み止めが飲めない。
ところが、いつものことなんだがこの腹痛、かなり痛い。
いい大人なんですが、あまりの痛さに声が漏れる。あははは。
「ぁぅぅぅぅぅぐぐぐぐぐぅぅぅぅ」
うなり声があがる。
なんていうかこう、切れ味のわるいナイフで下腹部をごちゃごちゃされてる痛み。いや、はさみでぐさぐさって内側から外側に刺される感じか。
まあそれはいいとして、あまりの激痛に瞑想タイムが終わっても立ち上がれないのだ。休憩時間になってもうずくまったまま動かないわたしにお世話役のマネージャーさんがかけよってくれたものの、湯たんぽをもってきてくれるものの、梅昆布茶をもってきてくれるものの、もうそんなものを超えた痛みなので、こちらとしてもどうしようもない。
なんとか這うようにしてベッドにもぐりこんで2時間休憩させてもらう。
まだ二日目なのに……と思うところがあまりそんな気分にはならなかった。むしろ日程のはやいうちに癪が出て良かった!ぐらいに思っていた。家にいたとしても、痛み止めが間に合わないとこんな風に痛むし、痛いのは痛いし、心細いのはいつも心細いんだから一緒だ。
いつもは大量に痛み止めを飲みそれで痛みを抑えるも、今度は胃が悪くなって、ひどいときには1週間寝込むのだ。しかし今回は奇跡的に2時間ほどで痛みは弱まった。痛みは残るものの御の字だ。ほっとする。
ただ、同じ部屋の口のきけない仲間たちには「こいつどうしたんだ」と不安な思いをさせただろう。そこはちょっとだけしゅんとした。そんな二日目。
しんどいけれどしんどくない。日常に比べれば。
3日目にはもうすっかり痛みがなかった。
腹痛が治まったのを良いことに「いやっほーーーい!瞑想?!何時間でもばっちこーい!」状態なわたし。「脚のしびれ?眠気?あの腹痛にくらべたらなんでもなくない?」ここで軽くテンションがあがったのかもしれない。
「一日11時間ほどの瞑想をするのだ。しんどくないといったらうそになるが、それでもやっぱりしんどくない」
と、そんな風に思った。……というより気付いた。たかだか3日で。
日ごろ自分がどれだけ魂を傷つけて生きているか。
どれだけトゲを突き出しているか、とれだけトゲを突きつけられているか。
押し込めているか、押し込められているか。
それに気付いた。
わたしの耳の良さ=耳の悪さは友人なら良く知っているだろうけど、
疲れがたまってくると猫の足音でも目を覚ます。
かれこれもう10年ほど耳栓が手放せない。
集中したいとき耳栓!ぐらいならよいのだ。
ここでカミングアウトしよう。わたしの場合はお恥ずかしながらちょっと病的。
書店員のしゃべり声で本が選べなくて、公園で一人で泣いたこともある(あははは)。
夜寝ようとするとちょっとした音が気になって耳栓を押し込み、それで聞こえなくなった分、余計に耳をすまして騒音を聴き取る。ついには耳を傾けすぎて気分がわるくなり、音楽をかけたりして音で音を消す。こんなばかばかしい行動で、結局は疲れた耳を休ませずに暮らしている。なんなのだこれは。
ライフハックがどうしたこうしたといいながらも、常に何かを追いかけて、常に何かに追いかけられて、何時間も椅子に座りっぱなしでもその痛みを感じる気持ちも体も失っている。なんとたわけなわたし。
それがここでは違う。
- とにかく静かだ。瞑想しているのだし、
休憩時間だって口がきけないので当然のごとく話し声は聞こえない。
まあ響き渡るといえばくしゃみの音ぐらいか。
(それとまれにいびき
)
車もほとんどとおらないし、建物に接している道路には防音壁が設置してある。
寒いが静かな気候の場所で、強い風もふかず、雪もふわふわ降る。外にでるまで気付かない。
- そして瞑想中は目をつぶる。むしろ開けてはいけない(でもあけちゃうけど)。
11時間瞑想して、7時間ねているから18時間目をつぶっている。
愛など芽生えもしないのにパソコンと見つめあう日々の暮らしとのこの違い!
- 時間割に従いさえすればいい自分でスケジュールを決めなくてもいい、段取りをしなくてもいい、優先順位をつけなくていいとはなんと楽なのことか。
- 瞑想しさえすればいい食事は質素なものだけれどもおいしいものが出てくる。
今日のメニュー何にしようかと考えなくてもいいし、買い出しにいかなくてもいい。子どもの頃に戻ったみたい。「おかあさーん、今日のごはんなあにー」という感じ。母には文句を言ったけど、ここではただ与えられたものをただありがたくたべる。洗濯なんかはもちろん自分でやらなくちゃいけないが、なんせ口がきけないのだ。目配せもできない、目をあわせてもいけないから、だーれもお化粧なんてしない。へんちくりんなセーターきてたって、靴下を重ね履きしすぎてロボットみたいな脚になっていても、あたたかければいいわけだ。
とにかく、瞑想修行をがんばればいい。
この明快な毎日。
なんてことを瞑想中に考えており、瞑想になっていないわけだが、おおまかに上記の4点から、「日常生活より楽」と判断をしたわたし。
最初は「つらいことをして根性でもつけようかな(もじもじ)」だなんておもっていたのに、ここでイメージが180度かわる。
「ていうかわたし別にここに住んでもいいわ。お家かえんなくてもいいわ。」
とまでおもった。
実は行きのバスのなかでは「何で私こんなことするって決めたんだろう」と涙ぽろりんしていた。バスをおりて、行ってきますと数人にメール、数人にお電話してやっと腹を据えたというのに。
ただ、ベッドの上に愛猫が寝ていないこと。これにはまいった。
残してきた猫のために、母が足しげく通ってくれているのはわかっているのだが、「何か思わぬあほなことして死んだりしていないか」と不安になる。
ただその「何か思わぬあほなこと」にしても、
起きるときは私が家にいても起きること。
わたしが数時間外出してるときだっておなじこと。
そうおもって心をおちつかせた。
とこんな感じで、楽しいクリスマスとお正月を瞑想修行にあけくれたわけだが、肝心の瞑想はどうだったか……はまた別のエントリーで。
眠い。寝る!
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